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「お寺さん崩壊」を読みました

「ブログに何を書こうかな?」と思っているうちに45日が経過していました(^^;

久しぶりの今日は5月1日に読み終わった水月昭道著「お寺さん崩壊」のことを書こうと思います。

お寺さん崩壊 (新潮新書)

お寺さん崩壊 (新潮新書)

読んだきっかけ

少子高齢社会となり、様々な面で世の中が激変していることを感じる今日この頃、

「坊主丸もうけ」なんて大ウソ! 檀家激減で、寺院経営は大ピンチ。

という帯を見て、お寺も人口減少による需要減と無縁ではないのだな...と思い手にした次第です。 

「お寺さん崩壊」の要点

人口減少で消滅する可能性がある自治体が896に上るという新聞記事が出たのはもう3年も前のことですが、お寺さんも消滅する可能性が高いということが書いてありました。

私の実家の檀那寺は「檀家が300軒以上あって安泰」と母が言っているのを聞いたことがあります。しかしながらこの本によれば、お寺さんの健全なる財政環境の分岐点は檀家300軒らしいので、特に儲かっているわけではないということがわかりました。

気になったところ

1点目は「法事をまとめて済ます檀家さんが現れた」という件です。

 だが、悲しいかな。都会などでは、法事そのものが激減しているらしいではないか。ご葬儀のあとは四十九日をして、一周忌。その後は随分と飛んで七回忌で終わり、ということもあるとかないとか。
 お寺の人間にとってはゾッとする話だが、そう言えば筆者の寺がある田舎でもそうした兆候が若干目立ちはじめたから人ごとではない。
 たとえば、ずっと昔に亡くなったお爺ちゃんの二十五回忌と、一昨年亡くなったばかりのお婆さんの三回忌が同じ年にあたることとなった。入滅の時期(季節)を調べるとこれまた冬。なので二つの法事をあわせて一度で済まそうか・・・・・・、などということはもう当たり前になりつつある。
 (中略)
 ちなみに、お布施も故人お一人分にまとめてあったりと、簡略化・効率化の流れはかように大きい。

うちでも父の三回忌と祖母の五十回忌を一緒にやりました。父は冬、祖母は秋に亡くなっているんですけどね。

これはお金のこと、手間のこと、親族に出向いてもらうことへの慮り、色々理由はあると思います。

 2点目は、仏教は「自分探し」ではなく、「自分無くし」というところです。

 世間では殊更に、自分らしく生きるとか自己実現を果たそう、などのかけ声がいまだ大きい。が、仏教では自分の我執を薄めよう、とか、そのためには(欲を)捨てることを覚えようなどと、まったく逆方向の叱咤がなされてきた。それも二千五百年も前から。
 自己実現よりも、「自分無くし」に力を入れるほうが仏果(悟り)を得る近道だからなのだろう。
 そもそも、お釈迦様はこうも仰っておられる。
「あらゆるものは全て同じ形のままではいられずに常に変化していく(諸行無常)」
「あらゆる存在には"我"といったものなどない(諸法無我)」
 つまり、私たちはいま生きていることを当たり前のように捉えているが、いつかは生身の体におさらばしなければならない、常ではない(無常の)世界に生きているわけで、そこでいろいろなものを手に入れたとしても、いずれは全て手放さねばならない。いま"私"だと思っている自分も、本当のものではなく仮の姿に過ぎない、と仰っておられるのです。

 自分探しに忙しい若者は、仏教を学べばよいのではないでしょうか。

まとめ

 日本の仏教は「葬式仏教」と揶揄されることもあるようですが、これからは弔いに対する考え方もどんどん変化してきて「葬式仏教」としても残れないようになるのではないでしょうか。

混沌とした世の中では救いを求める人々が増えると思いますが、その時に「お寺さん」を救いの場として選択する人は少ないような気がします。